容易な解決ない中国の民族問題 テムセル・ハオ

  • 2009/07/29(水) 14:29:57

中国の最西部地区の新疆で2009年7月5−6日とその後に起きた民族の抗議と衝突で、約200人の死者を出した。主にウイグル人(イスラム教徒)と漢族の中国人の間で起きた。状況はいまだ不明であるが、治安軍もデモをするウイグル人の殺害に関与した。死者を出した暴力は中国全土の世論に衝撃を与え、分裂させた。また、この事件で中華人民共和国における異民族の間の関係という微妙で複雑なテーマにあらためて注目が集まった。 
 
 同地域での政治的協定は、その社会経済状況に合致していないという議論が、分裂した新疆のどちらの側からも聞かれる。ウイグル人は「民族政策」という形だけの平等主義に不満を持ち、さらなる参加と新疆経済と社会的利益をもっと寄こすように要求している。一方、漢族中国人はウイグル人に対する政策はえこひいきだと見なして不満を持ち、自治の保証とウイグル人(とその他の少数民族)が利益を享受しているとみられる特別待遇を廃止するように求めている。 
 
恩恵のバランス 
 
 新疆の首都ウルムチで主に起きた2009年7月初めの出来事は、1990年代と2000年代の急速な経済成長と社会変容の大きなプロセスを反映している。特に、経済を開放し、新しい労働市場メカニズムを創り出し、国内の労働者の移動をうながした中国指導部の国内政策は、同地区に(他の地域と同じように)大きな影響を及ぼした。 
 
 こうしたプロセスは、中央計画経済から市場経済へという中国の歴史的転換に付随して起きた。中国は世界の製造業の中心になった。多くの人々が恩恵を受けたが、大きな問題も生じた。都市と農村、沿岸部と内陸・辺境、同一の場所での繁栄と貧困などのあらたな開発格差である。さらに、大きな不安定がある。中国の多くの人々は、一世代前にはあった終身雇用と社会のセイフティネットの保証を失った。 
 
 新疆では、この「不均等な発展」は、多くのウイグル人から見れば、民族ごとに制度化され、彼らにとって不利なものになった。すなわち、彼らは地域の経済生活において、ますます取り残されることになった。 
 
 ウルムチでの出来事の後、拘束されたウイグルの知識人で学者のイリハム・トフティは、2つの事例を示した。一つは、新疆生産建設兵団が共産党、政府、軍隊、農場、工場を合わせた包括的な機関であることである。それは、彼らにとって一層不利なことに、新疆での最良の農地を取得し、上流から川の流れを変えた。第2は、新疆は石油、石炭、ガス、綿花を中国のより発展した地域に供給してきたが、地元民はそれらの製品の一部に対しては、中国の内陸地域より高い価格を払わなくてはならないことである。 
 
 イリハム・トフティは、中国の新疆政策は「植民地主義」より悪いと主張する。外国資本が中国や他の発展途上国に進出する時には、地元民は少なくとも「搾取工場」で「搾取される」機会がある。しかし、中国は自国の領土に国営農場、事業、石油会社をつくり、多数の中国人労働者をその地域に送り込む。ウイグル人労働者は、一般的に新疆の国営工場では採用されていない。一部の者は4000キロ離れた広東省の工場で働くために送られた。彼らのうち2人が6月25−26日に起きた漢族中国人との衝突で死亡したことがウルムチでの暴動の発生の一因となった。 
 
イデオロギー的口実 
 
 中国の共産軍は1949年に新疆に入り、東トルキスタン共和国を解体させた。以来、事実上の現地の独立と地域自治という歴代の体制のもとで、中国は「民族」間の表面上の平等をつくりあげた。しかしながら実際には、新中国は昔の「辺境戦略」のいくつかの要素を実施し続けた。つまり、西部辺境一帯の戦略的に重要な地域を確固たるものにするために、大規模な中国人を移入することである。 
 
 ヒューマンライツ・ウォッチの推計では、新疆での漢族中国人は1949年に地域全体で6%を占めていたが、2007年には40%になった。現在の数字には、中国軍とその家族、それに登録されていない移住労働者の数は含んでいない。さらに、前述の新疆生産建設兵団はその種では最大のもので、農場、鉱山、工場、町、学校、病院、警察、裁判所を支配することで、事実上、新疆に移植された独立王国になっている(また、中国のメディアにより、「国家の統一を保証する抑止力」として大いに称賛されている)。 
 
 しかしながら、新疆における中国人の移住と支配の確立は、かつて「超民族的」で「社会主義的」であったイデオロギーを口実に行われた。「プロレタリア国際主義」という共産主義のドクトリンでは、民族と民族感情は―中国人のものであろうと、中国人以外のものであろうとー一時的なものと見なされ、発展のより高い段階では、民族のない共産主義社会の中で消える運命にあるとされている。 
 
 超民族政策とこの関連したイデオロギーは、現地の民族主義とも中国人優越主義の表れともに、相反するものであった。後者には、1949年以前の中国の軍閥、満洲王朝、国民党によって進められた非中国人に対する抑圧政策が含まれる。新疆を中国へ統合することが合法的であるとする主張の根拠は、中国人と非中国人の苦しい大衆の共通の利益により、現地の非中国人による民族自決の要求が不必要になったというものであった。 
 
民族の復活 
 
 1980年代末以来、中国の民族政策と理論が超民族性を強調したことで、中国の市場改革政策の影響とますます衝突するようになった。古い公式イデオロギーは、緊急の社会的現実にほとんど足掛かりを持たず、政府は国家的結束と包括的中国国家という考えを強調して、右に向きを変えて対応した。そうした概念は正当性を必要とするが、競い合うように台頭した理論によってある程度、満たされている。その中には、典型として「中華国家」「炎帝と黄帝の子孫」「龍の民族」、それに「中国文化」「中国らしさ」などがある。 
 
 中国の公式イデオロギーが右にぶれた時期は、中国が国際的分野で非常に大きな経済力と政治的影響力をつけた時でもあった。中国が台頭しつつあるという認識は国内で強く感じられており、漢族中国人の民族アイデンティティと民族感情を強めるように作用している。これが次に、国内の民族関係に影響を及ぼし、経済的に取り残され、文化的同化に直面している中国の少数民族が不安感を増している。 
 
 さらに2つの実際的要素が、新疆などの地域で民族のアイデンティティを鋭敏にさせるプロセスを強めている。第一に、新疆の多くの人々は、中央アジアのイスラム教徒が多数派を占める5つの国の人々と民族的親近感を共有している。カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンである。ソ連の崩壊で出現した、それらの国々は、新疆のウイグル人にはっきりしたアイデンティティと、漢族中国人の隣人との関連で、政治的に異なる可能性のある忠誠を強く思い起こさせている。 
 
 第2に、過去20年間にインターネットや携帯電話などの新しい通信技術が広がったことである。これらはウイグル人などの側に、新しい形態の話し合いや組織、情報の流れを促進した。新疆にいる人々、国境を越えた人々、国外に移った人々の間の連絡は、これの重要な部分である。 
 
 同時に、インターネットのネットワークは、誤った、あるいは悪意のあるうわさが現実世界で邪悪な結果をもたらす可能性をつくり出している。広東の暴力とウルムチの暴力は、漢族中国人とウイグル人の間の憎しみをインターネット上で煽るという特徴があった。 
 
 このインターネット上での偏見の組織化の多くは、以前からあった民族の固定観念を利用している。こうしたことはどちらにも働くということを認識することが重要である。例えば、2004年に北京での全国人民代表大会で、わたしは当時の新疆自治区のイスマイル・ティリワルディ主席が香港のジャーナリストの型にはまった質問に、いらだちをあらわにして反応するのを目撃した。それによって、彼は中国の都市でのウイグル人によるとされる多くの一般犯罪について発言することになった。ティリワルディは質問者に、バランスのとれた報道の必要性を指摘し、民族の交流は両方向に行くと述べた。 
 
 この数十年間に新疆に移住した膨大な中国人には、中国の監獄制度を通じてやってきた人々も多くいる。一部の者は、新疆のゴビ砂漠に散らばる多くの大きな刑務所を生き延びた者たちでもある。実際、満洲王朝から1949年にいたるまで、新疆は多くの受刑者の強制的な行き場所として、英国に対する植民地時代のオーストラリアに似た役割を果たした。地元の非中国系の少数民族は、中国人移住者の間で受刑者の割合が高いことに不平を漏らしている。 
 
 民族ごとの分断が深まったことは、新疆などの地域での根本的な問題と取り組むためには、表面的な取り繕いや宣伝をはるかに超えたものが必要になるであろうことを示している。 
 
静かな終わり 
 
 現在、多くの中国人は民族を基礎にした地域自治という昔の制度は失敗したものとみなしている。彼らは、中央国家の少数民族に対する政策は過度に慈悲深いと見なして非難し、これは人を法の上に扱うまでになっていると主張する。彼らは特に、1984年に中国共産党が発表した、いわゆる「二少一寛(二の抑制に一つの寛大さ)」を非難する。その政策は少数民族による犯罪を抑え、訴追する際には寛大さを求めている。 
 
 こうした姿勢は、新疆が王震将軍の鉄の支配の下にあった1950年代の「古き良き時代」への郷愁を煽っている。彼は、少数民族の虐殺など、民族や宗教問題を無慈悲に扱うことで有名であった。毛沢東でさえ王震を「極左」の狂信として非難し、後に新疆での職務を解いた。 
 
 王力雄は「私の西域、君の東トルキスタン」という本で、新疆での個人的経験を詳しく述べている。彼は、王震将軍と1930年から1940年代に新疆を支配した中国の軍閥、盛世才について、民族によって極めて対照的な見方をすることが分かった。新疆の少数民族は王震と盛世才を冷酷な大量殺人者と見なし、現在の新疆の党書記、王楽泉を“王盛世”と呼ぶ者もいた。しかし、新疆のほとんどの中国人は、王震と盛世才を中国の領土を広げ、強固にした民族英雄と見なしている。 
 
 こうした態度は政治信条に影響を及ぼしている。銭学森やその他の主要な知識人や反体制者を含む、多くの影響力のある中国人は、中国当局に対して、「恩恵的」民族政策を再検討するように求めている。一部の者は、現在の民族を基礎にした自治区を廃止し、新疆を中国の省の地位に戻すように求めている。「るつぼ」同化という米国モデルが中国の民族問題を解決するものとして広く見なされている。 
 
 王力雄もまた最近、民主政治のもとで個人の権利が保証されていれば、民族を基礎にした地域自治の制度がなくても中国はやっていける、と主張している。彼は言う。「もし、個人の権利が保証されるなら、当然、個々人から成る少数民族集団の権利も保証される。従って、民族を基礎にした地域自治はもう必要ない」。 
 
不可能な問題 
 
 しかしながら、大局的に見ると、民主主義は民族紛争の魔法の解決法であるという中国の反体制派の意見が国際的歴史で経験的に証明されるような証拠はほとんどない。ディビシュ・アナンダは「非共産主義で民主主義になった中国が少数民族の利益により協調的になるとは限らない」と述べている。 
 
 理論的には、中国は非中国地域を歴史的に指導者の意思やむきだしの征服ではなく、地元の民族のエリートとー急進的(新疆や内モンゴル)か保守的(チベット)―協定を結んで編入した。こうした協定の基礎は、中国共産主義者の目標と非中国民族主義者の民族自治や解放の要求の間の妥協である。協定は1949年ごろの中国共産主義者と現地の非中国の共産主義者や民族主義の協力者によって出された「7項目合意」やその他の命令である。民族を基礎にした地域自治体制の合法性は、こうした合意からきている。 
 
 言い換えると、自治区の主要な少数民族は、彼らのエリートが(革命的あるいは保守的な場合もある)新しい体制での彼らの政治的代表として、1949年に中華人民共和国に集団として参加したと考えている。 
 
 しかし1949年以降、その体制内のエリートは次第に粛清され、より従順な少数民族の幹部に取って代わられ、彼らはその体制内に残された彼らの集団の単なる正当的代表にすぎなくなった。 
 
 1949年から60年後の現在、民族制度は中国が多民族国家として正当性があるという目的を果たしているかもしれない。しかし実際には、その元々の意味を失っている。中国は岐路にある。資本主義改革の数十年後、民族制度を含む国家管理は、さまざまな経済変化の力と深い緊張の中にある。 
 
 この点で、非中国系の少数民族に対処するために米国式の同化主義を要求することは、市場の力による解決策を支持することになる。それは、地域と民族の障壁を破り、民族関係を個人を基礎にした経済関係に代えるものである。その結果、国家の中心的性格は多民族(multi-ethnic)のものから、同質的国民国家(nation-state)に変わるという論理である。 
 
厳しい選択 
 
 中国当局の新疆の暴動への対応の仕方は、中国国民と亡命ウイグル人グループの双方から非難された。それは中国当局の、暴動を民族の事件としてではなく、政治的事件として見る、超民族的(表面上は「中立」でさえある)立場である。 
 
 新疆のウイグル人や他の非中国系少数民族にとって、大きな懸念はどれだけ中国当局が高まる大衆的意見に抵抗し、限定的な中立性を維持できるかということである。この質問に対する回答は、非中国系の少数民族が国家とどの程度、一体感を持てるかということに影響するであろう。中国社会はますます緩み、国家の権力が後退しているので、政府の政策はますます社会的影響力に左右されている。 
 
 中国当局は、国家の正当性をいかに維持し、民族関係を扱うか厳しい選択に直面している。高まりつつある漢族中国民族主義に対して、非中国系集団の同化を促進することで対応しようとするなら、少数民族の民族主義の大義を挑発するであろう。その大義に対して中国は1949年にいくらかの順応を見出した。民族自決と民族解放である。だが、自治区での民族間の関係を改善するために、現在ある多民族の協定を改正しようとすると、中国人のビジネスの利害と世論に重大な問題を引き起こす危険がある。 
 
 中国が容易に抜け出す方法はない。ラサでの火の手も、現在のウルムチでの火の手も、最も理にかなった精緻な政策なしに消すことはでいない。しかし、それでさえ十分ではないかもしれない。魔物が瓶から飛び出し、自由に飛んでいる。21世紀へようこそ、中国。 
 
*テムセル・ハオ BBCワールド・サービスに勤務する、ロンドン在住ジャーナリスト 
 
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 . 
 
 原文 
 
(翻訳 鳥居英晴) 

中国のチベット 回答のない問題

  • 2009/04/30(木) 13:43:19

 半世紀を経て、中国のチベットは行事を記念する新たな祝日が与えられた。「農奴解放日」である。胡錦濤中国共産党中央委員会総書記を含む幹部政治家のグループは、チベットにおける民主的改革の50年を記念する催しに出席した。公式メディアは、今日の業績を宣伝する一方、歴史的チベットにおける「農奴」の邪悪を非難した。中国の外相と首相は内外の記者に対して、ダライ・ラマの「独立の姿勢」(彼が放棄して久しいもの)を非難した。

 中国軍がラサを「解放」し、ダライ・ラマと彼の信奉者の多くがインドに亡命した1959年の時期を祝うこの熱狂は、北京の指導部がチベットの指導者と「交渉する」政策を放棄したことを示している。交渉は世界の世論のよって、五輪の直前の段階で始めるように強制されたものであった。 五輪を成功理に終わらせたこと自体が、政府が厳しい立場をとる一つの理由であり、西側諸国が世界的金融危機で生き残るために中国の助けを求めていることもう一つの理由である。中国はもはや口を閉ざす必要はない。チベット問題は行き詰っている。

 強硬姿勢はチベット問題についての広範な誤解を反映している。問題を理解している中国の人たちでさえ、問題の最も重要な点がどこにあるのか知らないようだ。結局のところ、ダライ・ラマは独立の求めを放棄し、チベットは中国の一部であると繰り返し述べ、外交と国防(当然、チベットでの軍隊駐留権を含む)についての北京の権利を受け入れ、中国憲法と「地区民族自治法」の枠組み内だけの自治権の拡大を求めることに合意した。ではなぜ、中国政府は交渉のための基礎さえ認めようとしないのか?小平が1979年にダライ・ラマの兄に会った時に述べた「独立を除いて、どんな問題も討議できる」と述べた小平のアプローチはどうなったのか?

 共産党は1949年に権力を握る前は、民族自治についてまったく異なる立場をとっていた。イデオロギーの一部として、「民族自決」の考えを全面的に採用していた。これは、国民国家という近代欧州の思想からきたもので、レーニンのエッセイ「民族の自決権」(1914年)でもっとも幅広い解釈を与えられた。共通の文化的特質を持ち、民族と自身を見なすなどの集団は、恒久的祖国内に自治権と独立主権国家を樹立する権利を持った。

 どの帝国にとっても、これは崩壊をもたらすことは明らかである。ソ連は、この運命を避けるために激しい努力をした。100の異なる民族がおり、それぞれは紙の上では、ソ連を離脱する憲法上の権利を有していた。しかし、すべてのこうした民族は、より高い統一した目標をイデオロギー的に信じて団結した、幸せな社会主義家族というイメージを作ろうとした。実際には、「多民族家族」は一党支配、暴力的抑圧、経済的搾取によって捕らわれ、自治権でさえ与えられなかった。

 中国共産党はソ連の設計図に密接に従った。1928年、6回党大会(モスクワで開催)は、「民族が独立し、分離する権利を認め、中国内のすべての民族が中国から離脱し、彼ら自身の国を形成できると認めた時にのみ、われわれは真の共産主義者になるであろう」と宣言した。1931年11月7日、同党は江西省に中華ソビエト共和国を樹立した。同共和国の1934年の憲法14条は、次のように述べている。「中華ソビエト共和国は、中国内の少数民族の民族自決権を認める。少数民族でさえ分離して独立国を樹立する権利を保持する」。

 1949年に権力を掌握して以来、党は民族を「識別」してー作り出してーソ連から学び続けた。中華民国の5つの民族―漢族、満州族、蒙古族、回族、チベット民族―は、1986年までに56になった。地区民族自治区の設置もソ連方式が採用された。ただし、「国」を意味する一体化という中国の歴史的伝統は、「区」になった。

 民族の違いを作り出し、強化することにより、少数民族は国より、民族と同一性を確認するようになった。今日でさえ、民族自治区の党書記で、その民族出身者である者は一人もいない。いわゆる自治は常に、漢族の書記の指導と監督のもとにある。党が分裂や権威の喪失をそれほど心配するなら、そのシステムの意味はそもそも何であったのか?

 「民族自治」の問題の中心には、二つの問題がある。一つは、異なる民族の間の関係(民族自治の原則が受け入れられるなら、あつれきを起こす可能性が生じ、必然的に民族独立の可能性も含む)。第2に、自決への道に通じる政治的メカニズムの問題である(自治は民主主義と指導者とその政策に対する投票に基づいてのみ可能であるので、民族の多数の意志は永続的脅威であるので)。「民族自治」の両側面はこうして、公式政策にとって困難なものとなる。最初のものは、党が受け継ぎ、推進する統一中国の理想と相いれず、第2のものは一党政治システムと相いれない。

 この観点から、ダライ・ラマが何をしようと、忠実な中国市民であると宣言しようと、独立を否定しようと、中国憲法内でチベット自治を達成しようとすると宣言しようと、中国政府はそれに対応することはできない。中国政府は、問題を回避する公式イデオロギーの矛盾に縛られている。

 その政策は別な面でも行き詰まっている。チベット亡命政府がチベット人民の自然な代表であるとするダライ・ラマの見方とかみ合う基本が欠けている。50年間にわたり、党はチベットのエリートを注意深く選別し、訓練してきた。その多くの党員は中国、北京でも教育を受け、戻ってから政府の役職につき、中国語とチベット語のバイリンガルである。彼らの多くは、昔の「農奴」の子孫である。

 それに反して、亡命政府の人々はチベットに住んだことがない者が多く、インドか西側で教育を受け、英語はうまいが、中国語はまったく話せない。自由選挙が行われても、地元のエリートが有利かもしれない。彼らは人々に「新参者」に権力を渡さないように説得するであろう。ダライ・ラマの帰国に最も反対しているのは、この台頭しつつあるチベットのエリートではないか、とわたしは思う。中国のチベット支配は彼らにかかっている。彼らは、同地域に関する中央の政策に影響を及ぼすことができ、権力に利害を持っている。

 積み重ねられた結果は、均衡状態である。中国の政治システムと民族の制度は。チベット問題は解決できないということを意味している。

*李大同 中国人ジャーナリスト。共産主義青年団(共青団)の機関紙「中国青年報」の付属週刊誌「氷点」の前編集長。

本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 . 
 
 原文
 


矛盾する国際刑事裁判所の決定 バシル大統領に逮捕状発行 マーチン・ショー

  • 2009/03/16(月) 18:25:07

いかなる基準からしても、それは画期的な決定である。2009年3月4日、国際刑事裁判所(ICC)の3人の判事は、スーダンのオマル・バシル大統領を同国ダルフール地域でのスーダン政府軍による戦争犯罪と人道に対する罪で起訴することを支持した。これは、同裁判所のルイス・モレノオカンポ主任検察官が2008年7月14日に訴追の手続きをした時に始まったプロセスが最新段階にあることを示している。先の発表と同じように、判事の決定は支持と非難の両方を呼び起こした。

ヒューマン・ライツ・ワッチは、重大な国際犯罪で現職の元首が起訴されたことを「犠牲者の勝利」として歓迎した。対照的に、一部のスーダン専門家は、起訴はこれらの犠牲者を危険にさらすと警告した。彼らは証拠として、スーダン政権がその決定に対し、13の国際的NGOを追放したという事実を挙げている。それらのNGOは、食料と避難所、医薬品を提供する国連の活動の不可欠な部分であった。その結果、ダルフールのキャンプにいる200万人の難民は、国際援助によって提供されていた生命維持装置を失うことになるかもしれない。

起訴の背景を見極めることにより、スーダン自身と国際正義が「ジェノサイド(大量虐殺)」の問題をどのように扱っているかという関連で、こうした問題を解明することが可能である。

正義のジレンマ

バシルは疑いなく、近年で最も無慈悲な反乱鎮圧作戦のひとつの指揮を執った。2005年2月に当時のコフィ・アナン国連事務総長に提出された「ダルフールに関する国際委員会」の報告書は、スーダン軍がジャンジャウィード民兵組織とともに、ダルフールの非アラブ系の人々、特にフール族、マサーリート族、ザワーガ族に降りかかった大惨事での主要な行為者であったことを示した。実際、これによりスーダンの指導者たちがICCに付託されることになった。

200万人以上が難民となり、数10万人が死んだ(多くは、ジャンジャウィードとスーダン軍によって殺されたが、それ以上にキャンプでの生活状況と病気で死亡した)。2004年、当時のコリン・パウウェル米国務長官は、スーダン政権はダルフールで「ジェノサイド」をしていると主張した。これは、ルイス・モレノオカンポがバシルに対して、2008年に起訴手続きをした(訳注:逮捕請求のこと)部分であった。

国際刑事裁判所の判事は、戦争犯罪と人道に対する罪で起訴する手続きを進めることを許可したが、ジェノサイドの罪は退けた。判事は、スーダンと同盟軍が次のようなことを行ったと信じる合理的な根拠があると言明した。「ダルフール地区全体で、スーダン政府の方針に従って、殺人、絶滅、強制的移住、拷問、強姦といった人道に対する罪を犯した。反乱鎮圧作戦の核心として、ほとんどがフール族、マサーリート族、ザワーガ族である、ダルフールの一般住民を不法に攻撃した。彼らは、スーダン政府によって、スーダン解放運動・軍(SLM/A)、正義と平等運動(JEM)などダルフールでの武力紛争でスーダン政府に反対しているグループと親密であるとみなされた」。

基本的には、世界で最初の恒久的な国際刑事裁判所が現職の元首を起訴するということは重要な一歩である(セルビアのスロボダン・ミロシェビッチとリベリアのチャールズ・テイラーは特別国際法廷に起訴され、チリのアウグスト・ピノチェトは国内裁判所、チャドのイッセン・ハブレは国際法廷と国内法廷の両方で起訴されている)。しかしながら、批判者がダルフールの難民の危険性を指摘しているのは正しい。バシルの軍隊が出入りを支配し、陸上で圧倒しているので、スーダン政府の報復は破滅的効果を持つことがありえる。国連の抗議が意味のある対制裁措置で裏付けられていない状況では、その可能性はある。

これは、国際秩序なき国際正義のジレンマである。ほかの紛争でも、抑圧者に対する国際的介入が犠牲者を無防備のまま置き去りにした前例がある。その中に、1999年のNATOのセルビア爆撃がある。地上軍の支援がない中、コソボ・アルバニア人はミロシェビッチの軍隊のなすがままにされた。ダルフールの場合は、アフリカ連合の少数の平和維持軍部隊は、市民を十分に保護する能力もスーダン政府の支配に異議を唱える権能を欠いている。

ICCの決定に対する批判者また、最終的にはスーダン政権とダルフールの反乱集団の間で和解に達するであろうと主張する。国際正義のプロセスは、この見通しを弱めるとも主張する。さらに、スーダン南部での数10年にわたる内戦終結のための脆弱な合意を脅かす可能性もある。起訴の後にスーダン政府が態度を硬化させたのは、この見方を支持するものとして引き合いに出されるかもしれない。もっとも長期的には、ハルツームの政権が頼りにしている(中国などの)国際的支持を弱めることもあり得る。

ジェノサイドを退ける論理

起訴は世界的観点からも見る必要がある。2008年から2009年にかけてのガザ戦争の後、多くの人々がイスラエルの戦争犯罪を調査するように要求した。ICCのバシルの訴追手続きは、首相候補のビンヤミン・ネタニヤフらイスラエル指導者の一部には、粛然とさせるメッセージを送ることになるかもしれない。スリランカの反政府武装組織、タミールのトラの残存者を制圧するために、市民を顧みることなく、残忍な作戦を遂行しているスリランカ政府関係者の間に不安を呼び起こすかもしれない。

同時に、判事がジェノサイドの罪を退けたのは問題である。ルイス・モレノオカンポがこれを「空想的な」主張で追求していると非難した者もいるが、批判者は確信が持てない。なぜなら、その主張には多くの実体があるからである。もっと問題なのは、判事の拒否がジェノサイドをめぐる判決でのこれまでの歪曲に基づいているということである。それは根本において、「民族浄化」はジェノサイドを構成するということを否定する定義上の巧妙なごまかしを反映している。

判事は、国際司法裁判所の2007年2月26日のボスニア対セルビアのケースでの決定を引用している。「ジェノサイドを特徴づける意図は、全体ないし一部の特定の集団を滅ぼすこと。集団の追放、強制退去は、武力によるものであっても、その集団を滅ぼすことと必ずしも同じ意味ではない」

問題は、これがダルフールのような場合には、ほとんど十分でないことである。ダルフールでは、政府とその同盟者は明らかにフール族、マサーリート族、ザワーガ族の社会を破壊し、生存者をキャンプで生活をさせることを目標にし、またそれを達成している。親スーダン勢力が大規模に行った殺人、負傷、強姦、拷問、強制退去は(こうした主張は判事によって受け入れられている)、非アラブ系の人々に対するこの破壊的作戦の一部であった。

ICCの判事は、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)での、スブレニツァのセルビア軍副司令官ラディスラブ・クルスティッチのケースの判決も引用している。「ジェノサイド政策と“民族浄化”として知られている政策の間には明らかな類似性がある」。しかし、「肉体的破壊と単なる集団の解体の間には明確な区別がされなければないない」としている。

しかしながら、そのような区別はジェノサイドについてのICC自身の定義の基になった1948年の国連ジェノサイド条約には、明確にはされていない。また、条約はジェノサイドの手段のひとつとして、「肉体的」危害とともに「精神的」危害をあげている。ICTY自身が認めたように、「民族浄化」はジェノサイド的になりうる。なぜなら、ダルフールで起きたように、家族やコミュニティが容赦なく居住区を追われると、故意の「精神的」危害が起こされるからである。

矛盾する立場

さらに、判事がスーダン政府軍に対して、(「人道に対する罪」として)「皆殺し(extermination)」の罪を認め、ジェノサイドの罪を退けたことの間には矛盾がある。もし、スーダン軍が一部のフール族、マサーリート族、ザワーガ族に対して、皆殺しの政策を追求したことを示す合理的証拠があるなら、集団破壊の狭義の「肉体的」定義に基づいても、(条約が述べているように)これは確かに、これらの集団に対するジェノサイドの罪に対する「部分的な」、一応の裏付けである。

しかしながら、結局、判事の主要な議論は、国際司法裁判所がセルビア軍はボスニアでジェノサイドをしたという主張(スブレニツァを除いて)を退けたのと同じ論点に重点を置いている。つまり、ジェノサイドのための「特別の意図」の存在である。意図というこの高度の法律的概念は、裁判所は加害者が明白に「敵」社会の全体か一部を破壊しようとした時、彼らがその人々の一部を肉体的に抹殺しようとした時でも、ジェノサイドの主張を退けることができると考えるということを意味する。

ICCの判事は、検察官の主張はスーダン政府の行動形態からのジェノサイドという推定に基づいているので、この推定は合理的に引き出せる唯一のものでなければならないと主張し、退ける理由を補強している。自己矛盾する形で、判事は残忍な反乱鎮圧政策という推定は可能であるとし、定義により、ジェノサイドの罪は立証できないと結論付けた。

重要な法的権威は再び、ジェノサイドを排除するために、ねじ曲がった、不十分な論法を使い、代わりに人道に対する罪と戦争の罪を負わせた。後者の罪は十分重大であるが、国際刑事裁判所がバシルのケースで決定した論理は、ジェノサイドが法的範疇として、説得力を失いつつある傾向を強めた。


*マーチン・ショー 英国サセックス大学国際関係論・政治学教授。邦訳書「グローバル社会と国際政治」(ミネルヴァ書房)
ウェブサイトhttp://www.martinshaw.org/
本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 . 
 
原文
 
(翻訳 鳥居英晴) 

反乱する世界 インドからグアドループまで ポール・ロジャーズ

  • 2009/02/18(水) 21:44:39

インドのディスカントストアー・チェーンのサブヒクシャは、店舗を2年間に10倍の1650以上に拡大し、同国の小売部門の最も目覚ましい成功のひとつであった。最近になって、大きな財務的困難に陥り、新たな銀行融資を募るのが困難になった。その結果、サブヒクシャの店舗と倉庫を警備する警備会社への支払いができなくなった。

2009年2月の第1週までに、グループ会社の多くが警備人員を引き揚げた。2月7日と8日の週末の間に、警備員がいない店舗の多くが略奪にあった。グループ会社が経営する全体の3分の1以上(約600)が影響を受けた。

サブヒクシャの経験は、大きな経済成長を遂げてきた国においてでも、金融危機の影響を如実に示している例である。さらに、それは特別のケースではない。インドの他の多くの小売業が苦境に直面している。また外国の小売業(英国のアルゴスを含む)は、同国での営業を休止しなければならないか、休止を計画中である。インド経済の2009年の予想成長率は、(他でも繰り返されることが確実なように)社会的要求を満たすよりはずっと低いので、同国の社会・商業秩序への圧力はさらに激しくなりそうだ。 

身を切るような風

サブヒクシャの問題が明らかになったのは、公式な世界経済の見通しが月ごとにますます悲観的になっている時である。例えば、2008年10月、国際通貨基金(IMF)は2009年の成長率を3.0%と予測した。そのほとんどは世界の南の新興諸国に集中するとみられていた。11月には、その数字は2.2%に下方修正され、2009年1月にはさらに0.5%に下がった。世界の毎年の人口増加は1.0%以上であるという事実からすると、この最新の数字は1人当たりの経済成長は下落するということを意味する。

世界の北にある先進の工業諸国、特に1世代を支配した新自由主義モデルで再形成された米国と英国のような国々はいま、来年は経済活動が少なくとも2%縮小する深刻な不況に直面している。同時にこうした国々は、世界の大部分では得られない適度な社会セイフティネットを持っている。多くの非西側諸国が依存するようになった市場が貿易の縮小によって凍結されている間は、福祉の保護がない貧困を増やし、この対比をさらにはっきりしたものにしそうだ。

例えば、発展途上国の多くは、輸出の稼ぎの大部分をコーヒー、茶、砂糖、食物繊維、銅、スズなど一次商品に依存したままである。2007年から2008年の商品相場のブームが去ったことで、こうした脆弱な経済への圧力が増している。

景気後退は世界の南により重大な影響を与える。これは中国やインドなど大きな国にも同じように当てはまる。両国でさえも景気後退の影響は、多くの人々にとって耐えがたいものである。中国での低成長の予測は、近年の10%近い成長と比べると、増加する社会の必要と需要を満たすことができないことを意味する。そのため、厳しい結果が予想される。

多くの新興諸国では、現在の不況が襲い始める以前にも社会騒乱が起きていた。それはひとつには、識字能力があり、目覚めた国民の間で、社会と富の胸が痛むような格差について気付いていた結果である。当局は次のように反応した。(中国では)自警団という新しい勢力が公共秩序を管理するようになった。(インドでは)地方の州で武装闘争を行っている新マオイストのナクサライトが同国の安全の最大の脅威であると認識した。

規模は小さいが、似たことは他でも起きている。2009年1月から2月にかけて、フランスの海外県、グアドループ(訳注:カリブ海の西インド諸島)は、経済的疎外化に抗議した労働組合と市民グループによるゼネストで揺すぶられた。騒乱は隣のマルティニーク島にも広がり、2つの他のフランス海外県(フランス領ギアナとインド洋の島、レユニオン)では、同じような行動が脅かした。サブヒクシャの出来事と同じように、マルティニークのデモ隊はスーパーマーケットを襲い、閉鎖を余儀なくさせた。

深刻化する不況の影響は激しいものになっている。中国で懸念の最大の原因は、移住労働者の要員(訳注:農民工)である。彼らは、地方から繁栄する都市と経済区に移ってきた膨大な数の労働者である。彼らは中国が主要な工業国の地位に躍進するのに重要な役割を果たした。

この現象の規模は巨大で(恐らく、1億5000万人が直接かかわっている)、中国の内陸開発に重要な役割をした。なぜなら、こうした労働者は家族を支え、農村経済を持続させた金を送ったからである。こうした送金は、中国の農村を発展させる重要な手段であり、好況期に都市の新しい中間階級を超えてた富の分配をささやかに保証するものである。

政府は、農民工の数の減少の経済的影響を認めたがらない。最近の政府の推計では、農民工の15人のうちの1人は仕事を失った。政府高官は。現在の危機で2000万人の農民工が職を失ったと認めた。

新しいコンパス

インドや中国などその他のところでの社会的不満は、世界的不況の初期段階で起きている点で、一層重要である。広がった怒りの主要な標的は、失政、汚職、不公正である。不満を抱く集団は、それを国内当局の責任であるとしている。これまでのところ、こうした過激な抗議は、北という少数世界での金融上の不品行へほとんど注意を払っていない。その不品行は、不安定な銀行システムを救うために膨大な債務の約束をもたらしている。

その額は、国連のミレニアム開発目標を満たすために必要とされているよりずっと大きい。だが、ある緊急事態での緊急救済と、別の緊急事態での怠慢と遅れの関連性は十分なされていない。これは、恐らく、国境を超えた過激な社会運動の出現で変わるであろう。

こう述べることの証拠は、1994年の元旦にメキシコで起きたことの関連である。南部の(主に先住民の)チアパス州で起きたサパティスタの蜂起である。反乱筋は蜂起の根にあるものを次のように述べた。

「われわれは何もない。まったく何もない。まともな住まいも、土地も、仕事も、健康も、食料も、教育も。自由に、民主的にわれわれの代表を選ぶ権利もない。われわれと子供たちのための平和も正義もない。だが、今日われわれは、“もうたくさんだ!”と言う」

サパティスタが彼らの運動と蜂起を、地元や地域の蜂起としてだけでなく、世界的な関係で見ていたと、当時は少しは気付かれていた。事実、彼らの蜂起は、北米自由貿易協定(NAFTA)の施行と時期が一致していた。NAFTAは彼らの苦しい立場をさらに悪化させると彼らは確信していた。

異議の国際化とでも言えることへの願望はまだ十分に認識されていない。しかし、社会運動、環境運動、労働者の運動での現象の片鱗を見る以上のものがある。それは、グローバリゼーションのひとつの結果は、疎外化と排斥という国境を越えた本質について、より幅広く理解するようになったという事実を反映している。

2010年代初めに、大規模な貧困によって引き起こされた国境を越えた反エリート運動が台頭する可能性は大きい。それは怒りに煽られたもので、排他的でなく公正な世界を渇望している。やがて、それは1950年代や1960年代の反植民地運動と同じか、それよりも影響力があるものになるかもしれない。インドでのスーパーマーケットへの襲撃は前兆である。


*ポール・ロジャーズ 英国ブラッドフォード大学平和学教授 オックスフォード・リサーチ・グループ(ORG)のコンサルタント ORGは1982年に設立されたシンクタンク。独立した非政府組織で、安全保障の問題で肯定的変化をもたらすことを追求している。 

本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 . 
 
原文

 
(翻訳 鳥居英晴) 

中国の政治的トンネル   魏京生

  • 2009/01/26(月) 15:22:20


世界は経済危機のただ中にある。それは、2009年にはさらに深刻化するであろう。西側の人の一部には、溺れる者が藁をもつかむような対応をする人がいる。彼らは言う。中国政府はたくさんのお金を持っている。だから、われわれを危機から救ってくれるようにアピールしよう。そこでは、彼らが理解していないことがある。北京の政府は世界はもちろん、自国をどのように救うことができるか分からないということを。

中国は2兆ドルの外貨準備を持っている。だが、この富の外観は、富める者と貧しい者の間の巨大な格差を覆い隠している。中国の富の70%は、その市民の0.4%の手の中にある。一方、2億400万人、人口の16%は1日1.25ドル以下の収入しかない(2005年の世界銀行のデータによる)。この極端な富の集中は、中国政府にとって深刻な経済的問題であるだけでなく、政治的問題でもある。

第1に、これは国内市場を維持するには、あまりにも少ない消費者しかいないということを意味する。新しい「世界の工場」は、世界経済の運命に極めて依存している。中国の輸出は2008年12月に2.8%下落した。10年間で最大の減少幅になった。中国の輸出販路の多くは崩壊しつつあり、これに伴って国内景気も下落させている。都市部の公式の失業率は4%であるが、これは信頼性がなく、もちろん過小評価したものである。まともな統計学者によれば、20%以上であるかもしれないという。中国の経済危機は、米国や欧州のよりずっと厳しいものである。

第2に、失業が増大し、賃金が低迷すると、大金持ちと中国の政治支配者に対する憤りが高まるであろう。2009年1月26日ごろの中国の旧正月の後、多くの労働者が都市に戻ってきても、工場は閉まっており、仕事はなくなっているであろう。多くの他の者はより家に近いところにとどまるが、地方にも仕事はないであろう。政府は彼らの反応を恐れている。
支配の落とし穴

2008年11月、北京当局は米国にならって、不況から脱するために4兆元(6000億ドル)の公共支出政策を発表した。これは、中国ではうまくいかないであろう。その政府は人民によって選ばれたのではなく、その政策は官僚資本家の利益のために行われているのだ。この政策の受益者は、一般の中国市民ではなく、資産を中国の外の安全な場所に動かすことができる支配エリートに関係を持つ大企業の所有者である。

中国政府は 追い込まれている。その富と権力の多くの源泉である官僚資本家階級を助ければ助けるほど、国民の大多数との関係をますます悪くさせる。唯一の脱出方法は、1930年代のフランクリン・ルーズベルトのニューディールのような計画で、困窮し、仕事のない中国人を助けることであろう。

この方針を取らないと、それ自身の崩壊につながる中国人民の蜂起の危険がある。中国の多くの部分で、暴力に転換している住民の不満という山のような証拠がすでにある。政府の統計でも、「突発事件」(抗議に対する公式の婉曲表現)は2006年の8万件から、2008年には恐らく10万件に増えている。この不満の風潮は、中国の歴史が繰り返してきたものである。それぞれの王朝の終わりは、暴力の最高潮で特徴づけられた。

それに対して、軍事的抑圧はうまくいかない。軍の下級歩兵は、仕事を失った地方出身の労働者の親類である。将校の家族も、経済の低迷に苦しむであろう。しかし、中国政府は大金持ちのビジネスマンと官僚の階級に依存することはできない。なぜなら、この特権階級は、その富と権力を守るために政治的にも行動するからである。

中国はなにしろ、これまでに多くの内部エリートの政治クーデターがあった。それは1970年代に歩みを速めた。1971年の毛沢東に対する林彪のクーデターの失敗から、文化革命を終わらせた1976年の華国鋒による「4人組」の打倒まで。経済危機に対処するトップの顔のすげ替えは、中国の深い構造的問題にとって一時逃れの手段ではありえる。最初のスケープゴートは温家宝首相かもしれない。

しかし、中国の深刻な問題への解決策は、ずっと深いところまで行かなくてはならないであろう。民主主義では、政府の終わりは普通の出来事である。けれども、独裁体制では、生と死の問題である。2003年に胡錦濤主席と温家宝がその地位について以来、首脳の交代のプロセスは一層非情なものになった。今日のエリートの政治闘争は、一層の処刑と長い禁固刑を伴う。通常、汚職を罰するという名の下に行われる。共産党内のさまざまな既得権益を持った者の間の内部紛争は増加しており、それぞれの派閥のライバルに対する責任のなすり合いは、一層ひどくなっている。

転換点

中国内のどのような背景を持った人々も、次のように言っている。1989年6月の天安門の虐殺から20年後のいま、独裁政権は苦境に陥っており、2009年か2010年に中国人は共産党に対する我慢が限度に達するであろう。国民の怒りの強さは、1970年代の毛政府と1980年代の汚職に対して向けられた憤りをはるかに超えている。

現代中国の人々は先人とは異なっている。彼らはもはや、賢明な皇帝や公正な判事が支配することを期待しない。民主主義だけが彼らが望むものを保証するということを知っている。つまり、繁栄、安全、公正な扱いである。中国の支配階級もこれを考える。彼らがすでに子供とお金を西側に送っている理由である。その証拠は、ロサンゼルスからレークジュネーブまでで見ることができる。そこでは中国の大金持ちが彼らの膨大な現金使い、不動産を買っている。家から離れなれない人々はそのような選択は持たない。しかし、彼らの時代はきつつある。

*魏京生 中国の人権・民主主義の活動家。1978年の「民主の壁」に書いた文章で懲役15年の刑に処される。1993年に仮釈放。1994年に再逮捕、政府転覆陰謀罪により再び懲役14年の判決を受ける。1997年、再び仮釈放。米国に送られ、以来米国に住む。1996年に「ロバート・ケネディ人権賞」と「サハロフ思想自由賞」を受賞。


本稿は独立オンライン雑誌www.opendemocracy.netにクリエイティブ・コモンのライセンスのもとで発表された。 . 
 
原文

 
(翻訳 鳥居英晴)